2011/03/18

折り鶴



 日本のみなさんが眠っているとき、こちらは午後、活動時間です。そして、夕方には、報道番組がはじまって、また新しい一日が明けます。

 昨日の午後は、TOMOKOさんがTV26チャンネルで広島原爆平和運動について語るというのでテレビの前にいたら、電話が鳴り、次男を学校まで迎えに行かねばならなくなりました。そして、最初に停まってくれたタクシーに乗ったのですが、頭のなかは日本の地震のことでいっぱい。もちろん、その話を運転手さんにしかけました。

 昨日は特に、政府の対応や報道の曖昧さに憤りを感じていました。運転手さんに、「苛立っていて申し訳ないけれど」と切り出しました。すると、わたしの方をみて、「わかってるさ」と温かいまなざし。

 アルゼンチンには広島からの移民が少なくありません。

 昨日のタクシーの運転手さんにはある日本人の友だちがいました。何十年も前の兵役時代の友だそうです。そのご両親は、日本移民の多くがそうしているようにクリーニング屋をやはり営んでいました。

「頭でっかちなやつなんだけど、その頭にはたくさん傷があるんだよ。まるで世界地図のようにね」と、運転手さん。

 兵役時代、そんな彼は、虐めの対象でした。

「俺が、いつもあいつを守ってやったんだ」と誇らしげ。

 ご両親が被爆していたのです。そして、彼は発病した。頭の傷は手術の跡です。
日本からアルゼンチンに移住するにはいろいろな理由があるでしょう。でも、日本での被爆者への目は冷たかった。女性は結婚が破談になることが多かった。健康な子どもが産めないだろうから、と。

 去年の9月、ボルヘスで展示会をしていたとき、下のフロアでは広島原爆平和記念の折鶴運動をしていました。アルゼンチンに20年在住の日本人女性TOMOKOさんが企画していたのです。

「広島の犠牲者の命を無駄にしないで」と彼女は言います。

 彼女は、いつもバッグのなかに紙切れをしのばせ、暇さえあれば折り鶴を折っています。

 わたしは、ボルヘスで展示をしていたとき、一緒に展示をしていたガブリエルに、折り鶴を毎日教えてあげていました。でも、彼は、いつまでたっても折れないのです。わたしたち日本人は目をつぶっていても、折れるのに。

 折り鶴を折っているとなぜか心がやすまります。わたしたち日本人の魂は、折り鶴を折る指先にも宿っているのかも知れない、とふと思いました。

 そして、帰りたくても帰れなかったひとたちの、祖国への想いを形にしたら、きっと、あんな形になるのではないかと。

 でも、折り鶴は飛べない。

 本当の渡り鳥になって飛んでいけたらと、どれだけのひとがいま、思っていることでしょう。

「大丈夫。きっと乗り越えられるよ」と笑って、わたしを車から送り出してくれました。

 車を降りたときのわたしは、もう乗ったときのわたしではありませんでした。

FUNDACION SADAKO

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