2011/03/19

学びのときが来た


 
 わたしは、原発反対でもなんでもなかった。というか、原発についてはほとんど知らなかった。日本から最も遠いアルゼンチンにいて、幸い、日本にいる家族も無事なのだから、今回のことはそっと遠くから見守っていればそれでいいのではないかとも思った。ところが、あちこちから自然に情報が入ってきて、なにかに導かれでもするように、考えざるを得ない状況になっていった。

 地震や津波は天災だから仕方がない。運命だと諦めるしかないのだろうと思う。今も、辛い生活を強いられている多くの被災者の方々のことを思うと胸が痛む。でも、原発震災は違う。「想定外だった」では済まされない。

 わたしが、今回の原発についてなにか変だと思い始めたのは、地震が起こった翌日のことだ。たまたまドイツの原発製造会社に勤めていたアルゼンチン人の原発技師の話を聞く機会に恵まれた。彼は、福島原発の情報を追っていたわけでもなく(そもそも情報などなにも届いていなかった)ただ、一技師として、「冷却装置が壊れたのは設計上のミス以外にあり得ない」と言い切った。わたしは、日本のように技術の高い国に限って、それはないだろうと思った。彼はペシミストなのだと。

 ところが、なぜ海外のメディアは大騒ぎをしているのに日本では騒がないのかという、もうひとつの疑問が湧き出た。ドイツが即座に渡航禁止、国外退去という少々大袈裟かとも思われる措置を取ったが、ドイツやフランスは原発推進国、選挙を控えているために被曝者がひとりでも出れば大変なことになる。日本は、国内での不安を煽らないために、情報操作しているのだという意見もあった。でも、わたしのなかにあるもやもやはどうしても消えてくれなかった。

  そんなときに知ったのがこれだった。原発の内部事情を暴いた平井憲夫さんの『原発がどんなものか知ってほしい』。夜も眠らずに読んだ。そして、情報が少ないのはなにか理由があるからだと思った。
 
 わたしは、フリージャーナリストのチャンネルをみることにした。これまでは、名前を伏せていろいろな著書を書いていたというひとが、実名で出演するというからだ。そうするからには、よくよくの訳があるのだろうと思った。東芝の原発設計技師だ。フリージャーナリストは原発反対派、これを機に運動を進めるのが目的だろうという声があちこちで上がる一方、テレビで「ただちに健康に害を与えるものではない」と解説する学者たちは、原発推進派、優秀だが、現場のことは知らない。さまざまな情報が飛び交い、どの情報を信じていいのか、正直なところ解らなかったが、ただひとついえたのは、誤魔化されるのだけは絶対に嫌だということ。

 そうこうしているうちに、新聞でも次々と福島原発のずさんな管理体制が明るみに出始めた。そして、とうとう、これは津波を想定していないアメリカ製をコピーしたものだということがわかった。アルゼンチン人の技師が言ったことは正しかった。確かに、今回の地震は千年に一度の大地震だと言われている。けれども、原発設計者の立場では「想定外」はあってはならないこと、それほど厳しい規準に基づいて作られているのだ。

 原発大国である日本はシューレアリスト的、幻想的原発管理体制しかできないのならば、これをただちに手放すべきだろう。「火は人間の領域にあるが、原発はまだ神の領域にある」という記事をどこかで読んだ。火とのつきあいは長い。だから、どう操っていいのかわかっている。けれども、原子力は違う。

「報道は人の道に報いるため」、「情報は人の情けに報いるため」
 
 もっとも危険な状態が危ぶまれたとき、20キロ圏内から避難したひとたちには、こういった情報はひとつも届いていなかった。マスコミはそれより計画停電を取り上げ、経済が滞ると大騒ぎしていた。いったい、どこに、情けがあったのだろうか。ただでさえ、多くの被災者が地震と津波ですべてを失い、精神的にも肉体的にも弱っているというのに、ただちに健康には害はないとは、彼らはいったい誰に向かって話しているのだろうかと憤りを覚えた。原発情報は、福島で、今、屋内退去を強いられているひとたちを基準になされるべきではないのだろうか。それとも、パニックを恐れ、不安を煽らないために、そのままなにも伝えず、放射線づけにするつもりなのだろうか。他のひとにはまだ充分余裕がある。でも、彼らの水や食糧が危険にさらされるのは時間の問題なのだ。 そもそも、福島原発は東北電力の管轄内にある。それを東京電力が持って行った。地震と津波のダブルパンチで弱っているところに、とどめの一発をくらわせた彼らのことを一番に気遣ってもらいたかった。震災があったとき、イタリア人の友だちが見舞いの電話をくれた。「日本の政治家はチェルノブイリのときのようなことはしないよね。だって、あんなに少ない政治献金を理由に一国の外務大臣が辞任するなんて、素晴らしいじゃないか」と。日本国民の勤勉、堅実、誠実、温厚は、世界じゅうのだれもが信じている。

 そんなとき、保安院の職員はすべて50キロ圏外に避難したという情報が入る。ふざけるなと思った。もちろん、みんな同じ人間だ。ひとりでも助かって欲しいとは思う。でも、カミカゼ決死隊が命がけで闘っているときだからこそ、こういう報道は隠して欲しかった。

 どこの原発推進国が、非常時にこんなにお粗末な報道をするだろうか。妊婦はレントゲン室には入れないことはだれでも知っている。彼らは、一時間そこにいるだけなのではない。そこの空気を吸いながら生きている。「大丈夫だ、いますぐに身体に影響はない、レントゲン何回分だ、CT何回分に過ぎない」、ならば、一ヶ月、半年、一年、三十年、百年後は?原発誘致は、安全よりも、ひとびとの安心を確保することが先決だろうと思う。けれども、そこに試行錯誤しながらたどりつくには、現在、払っている犠牲は大きすぎる。

 政治が絡んだずさんな管理体制や、実際にそこで働いているひとがほとんど素人であること(『日本の原発奴隷』)など、さまざまな現状を知ったときのわたしのショックは、かなりなものだった。今も、決死隊として現場にいるのは、東京電力の協力会社や下請け業者で、そこに集められているのはそうしたひとたちなのだろうと思う。わたしたちは、彼らに今の危機を救ってもらっていることを、知らなければならないと思う。

 今朝は東海村原発の臨界事故の犠牲者のNHKの報道番組をみた。原子炉はこれからも生贄を半永久的に要求するだろうと思った。テクノロジーが発達して、完璧な原発ができるのかも知れないが、それまでは、生贄を差し出し続けなければならない。

 日本の危機管理対策は、決死の自衛隊に頼っているのか?カミカゼが日本の安全対策とでもいうのだろうか?海外のメディアはそれを想定していなかった、だから大騒ぎしたのだとでも?

 被災者が食べものもないときに起こった買占め。ひとが人の道から外れたところにいる。もちろん、すべてのひとがそうだとは言わないが、そういった傾向にあるのは確かで、みられていなければなにをしてもいいという村上龍の指摘はあたっていると思う。そして、政治家もまさにそれをしている。まだ神の領域にある原子力も含めて、大きな力への畏怖を完全に失っているのかも知れない。そういった内側の補修から少しずつしていかなければならない。もちろん、わたしも含めて。
 
 この事故が起こったとき事象という言葉を使っていた枝野さん。はじめから潰すつもりでいれば、被害は広がらなかったかも知れない。けれども、専門家には、もう駄目だということはわかっていた。電気系統の復旧、冷却以外にない今、そのことをどうこう言っても仕方がない。今は、ただただ、安定することを祈りたい。そして、原発事故を数多くみてきた大人は多少の知識はあるが、子どもたちはその恐ろしさを実感できていないだろうと思うので、身近なところにいる子どもたちに被曝防止の情報を教えること。それをひとりひとりの大人が責任を持ってすることが、今、一番大切なことだと思う。
 
 これからは、「想定外」の出来事がどんどん起こるのかも知れない。世界じゅうで天災あり、民主化運動あり、これまでの経験だけでは判断できないことが起こっている。ありったけの想像力を働かせ、横のつながりを強化することも大切なことだろうと思う。

*今回の指針となった名大の高野教授のブログ
原発震災((9)まで続く)
http://bit.ly/fnMtJp

*京都大学原子炉実験所 小出裕章教授
「巨大地震が原発を襲うとき」
http://bit.ly/ggEXu6

2011/03/18

折り鶴



 日本のみなさんが眠っているとき、こちらは午後、活動時間です。そして、夕方には、報道番組がはじまって、また新しい一日が明けます。

 昨日の午後は、TOMOKOさんがTV26チャンネルで広島原爆平和運動について語るというのでテレビの前にいたら、電話が鳴り、次男を学校まで迎えに行かねばならなくなりました。そして、最初に停まってくれたタクシーに乗ったのですが、頭のなかは日本の地震のことでいっぱい。もちろん、その話を運転手さんにしかけました。

 昨日は特に、政府の対応や報道の曖昧さに憤りを感じていました。運転手さんに、「苛立っていて申し訳ないけれど」と切り出しました。すると、わたしの方をみて、「わかってるさ」と温かいまなざし。

 アルゼンチンには広島からの移民が少なくありません。

 昨日のタクシーの運転手さんにはある日本人の友だちがいました。何十年も前の兵役時代の友だそうです。そのご両親は、日本移民の多くがそうしているようにクリーニング屋をやはり営んでいました。

「頭でっかちなやつなんだけど、その頭にはたくさん傷があるんだよ。まるで世界地図のようにね」と、運転手さん。

 兵役時代、そんな彼は、虐めの対象でした。

「俺が、いつもあいつを守ってやったんだ」と誇らしげ。

 ご両親が被爆していたのです。そして、彼は発病した。頭の傷は手術の跡です。
日本からアルゼンチンに移住するにはいろいろな理由があるでしょう。でも、日本での被爆者への目は冷たかった。女性は結婚が破談になることが多かった。健康な子どもが産めないだろうから、と。

 去年の9月、ボルヘスで展示会をしていたとき、下のフロアでは広島原爆平和記念の折鶴運動をしていました。アルゼンチンに20年在住の日本人女性TOMOKOさんが企画していたのです。

「広島の犠牲者の命を無駄にしないで」と彼女は言います。

 彼女は、いつもバッグのなかに紙切れをしのばせ、暇さえあれば折り鶴を折っています。

 わたしは、ボルヘスで展示をしていたとき、一緒に展示をしていたガブリエルに、折り鶴を毎日教えてあげていました。でも、彼は、いつまでたっても折れないのです。わたしたち日本人は目をつぶっていても、折れるのに。

 折り鶴を折っているとなぜか心がやすまります。わたしたち日本人の魂は、折り鶴を折る指先にも宿っているのかも知れない、とふと思いました。

 そして、帰りたくても帰れなかったひとたちの、祖国への想いを形にしたら、きっと、あんな形になるのではないかと。

 でも、折り鶴は飛べない。

 本当の渡り鳥になって飛んでいけたらと、どれだけのひとがいま、思っていることでしょう。

「大丈夫。きっと乗り越えられるよ」と笑って、わたしを車から送り出してくれました。

 車を降りたときのわたしは、もう乗ったときのわたしではありませんでした。

FUNDACION SADAKO

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2011/02/27

岡本太郎生誕百周年 ニッポン男児ここにあり



 昨日は、アルゼンチン在住20年という日本人女性と、ブエノスの日本庭園でお会いした。そもそも彼女との出会いは、日本人社会とはまったく無縁の、去年の9月の展示会のとき。わたしは上の階で絵の展示、彼女は下の階で広島原爆平和のための折鶴展をしていた。

 一ヶ月のあいだ、上の階の自分の展示場に行くのに、毎日その折鶴の会場を通っていたので、彼女には何度も会った。けれども、あまり話をする機会がなくて、その後Twitterで、どういういきさつだったかまったく覚えていないけれど、言葉を交わすようになり、彼女のアルゼンチン在住20周年を記念してお茶でもしませんかということになった。20年前に青年海外協力隊からここに派遣されてきた草分け的存在。なにごとも勉強と前向きに飛び込んでいく姿勢には打たれる。

 昨日のブエノスはお天気も良く、日本庭園はすごい人出。相変わらず、園内は綺麗に清掃整備がゆき届き、ブエノスに突如現れた別世界といった感じ。その異次元的空間では、みんな朗らかで親切、ちょっと日本みたいでほっとする。
 
 庭園を散歩していると、ひとりの日本人の男子が現れた。WASEDAのロゴ入りのポロを着ていたが、卒業旅行で南米をバックパックの一人旅中。欧州と南米とどちらにしようか迷ったが南米を選んだのだという。ちょうど昨日は岡本太郎の生誕百周年、「迷ったときは難しい方を選べ」という太郎の言葉を思い出した。すると、WASEDAボーイは、選べること自体が幸せだと思うと言った。岡本太郎の記念日に相応しい出会いである。

 そのまま、みんなで連れ立って園内の図書室に行き、そこの係員と話しているうちに、書道の話題になった。みると、室内にも書がいくつか飾ってある。にわか書道屋のBiBi太郎も書道には関心がある。すると、そのWASEDAボーイこそが、実は、四段の達人だということがわかり、それじゃあここで一筆書いてみないかと、たちまちデモンストレーションすることになった。

 筆と墨汁と紙が準備されると、「座右の銘を書きます」とすぐに書くものも決まって、四段が取りかかる。呼び込み係はわたくしBiBi太郎。すぐに、なんだなんだとひとが集まってきた。WASEDAボーイは緊張することもなく、「日々是好日」とささっと書いていった。その意味をスペイン語で説明すると、みんなが感動した。そして、観客と記念撮影。彼にとってもよい思い出になったことだろう。書は図書室に残るし、いつか飾ってもらえるかも知れない。リクエストに答えてもうひとつ、絆という字も書いてくれた。

 このWASEDAボーイ、大学ではサッカーをしていたのだとか。スポーツマンである。一昨日はブエノスの公園で子どもたちとサッカーをして遊び、真面目でやさしく、礼儀正しいニッポン男児は、たちまちアイドル的存在となり、翌日はさっそくパーティに招待されたのだとか。サッカーに国境はない。言葉もいらないのだろう。
 
 日本庭園の売店で、三人で鯛焼きアイスをいただきながら、しばし南米の日本を満喫した。移民の方々の汗と努力によっていま、ここがあるということを、日本だけでなくどの国のひとも感じているのがアルゼンチン。WASEDAボーイはそんな多国籍共存のなかで育つ子どもたちを見て、いいなあ、とつぶやいた。


2011/02/04

この星のみやげに、ディノ・サルーシを Dino Saluzzi




 わたしにとって南米はなんだったのか。7年前、ここに到着した。南米について知っていることはほとんどなし、事前に調べたこともなし。それよりも、経済破綻後の当面の状況をどう切り抜けるかだけで精一杯だった。わたしは、ヨーロッパ経由の日本的発想が抜けきれないまま、それをここにあてはめようとしていた。でも、そんなことできっこないのだ。あっというまに、限界をみて、その構造は崩壊した。そして、なんとなく、ここには自由らしきものが、ありそうだ、とまで思ってしまったのだった。でも、それも、新世界に憧れてここに来たひとたちが考えていたのと同じ、らしきものに過ぎず、そんな生やさしいものではないということがすぐにわかるようになる。

 多国籍共存型の社会が先住民文化を押しのけて成立したかのような、虚構色たっぷりの環境に、ヨーロッパを少し齧った日本人がいる。赤子の手を捻るというのがいちばんあたっているかも知れない単純明解な構造のわたしがいる。そこにぴたっときたのがサルーシだった。このひとの音楽は、手放しで、自由の姿をしたアルゼンチンに入ってきたものへの賛歌なのだ。そこに待ち受けているありとあらゆることへ勇気を出して向かって行けと、背中を押されたような気分だった。父を亡くしたとき、毎日聴いていたのはこのひとの音楽だった。このひとの復活祭のコンサートのすぐ後で、父は逝った。その後、日本とアルゼンチンをなんども行き来した。空から地球を眺めながら、地上で起こっていることのなんとちっぽけで、取るに足らないことと、なんどもそう思ったものだ。でも、このひとの音楽は、わたしを地上へ連れ戻し、さあ、歩いていけという。

 なにも知らなかった。この国になにがあるのか、わたしにはまったくわからなかった。ここで、ひとびとの喜怒哀楽を一緒にみてこなければ。わたしには、なにもできなかった。貧しいひとに小銭をあげるくらい。ちょっとした寄付を施設に払うくらい。政治が悪いから仕方がないという聞き飽きた台詞しか入ってこない。そして、みんながそれでいいと諦めてしまっている。でも、本当にそれだけだったのだろうか。

 夕べ、サルーシを聴きに来ていたひとたちには希望があった。彼は、そうしたひとびとの思いを、結びつけ、動かぬものに変えようとしていた。なにを振り返り、なにを夢みるのか。言葉で説明できないけれどなんとなくわかる、だれにでもあるあの感じを、たとえそれが消失寸前なくらい弱りきっていても、このひとは見逃さない。掬い取ってしまう。

 そして、この7年のあいだ、わたしのなかでも同じことが行われていたのだろうと思う。いま、Ora di tornare a casa、帰るときがきた。このひとの音楽は、南米みやげに持って帰る。この先、たぶん地球みやげにもなるだろうと思う。

2010/11/01

魔法の国、ペルー


   リマの友だちの家はオリーブの公園の中にある。500年前にスペイン人たちが植えたものだ。幹が太く、木面はぼこぼこ、そんな老木が何百本もずっしりと根を張っている。気候は夏以外は低温多湿で身体の芯まで冷え切ってしまう。ブエノス・アイレスよりも緯度的にはずい分北なので温かいのかと思っていたら、まだ冬のような冷え込みだった。
 空からの眺めでは、アンデス山脈を越えた先はどこまでも白い雲に覆われ、なにも見えなかった。リマはその雲の下にあった。500年ものあいだこの気候のもとでよく育ったものだと思う。オリーブといえば地中海のからっとした天気を思い出すからだ。それにしても、この木たちは、コンキスタドールがここにやって来てからのことをすべて見ていたことになる。できることなら話が聞きたいものだ。
  
 ペルーの醍醐味というと食材の豊かさだろう。多くの野菜の原産国であり、特に芋類の種類の多さには目を見張る。アマゾンで採れるカムカムという果物はレモンの50~60倍ヴィタミンCを含有している。またサチャ・インチから作るオイルはオメガ3が48%以上。ペルーには木の実やハーブを使った料理も多い。ペルーのひとたちが穏やかなのは、充実した食生活によるのではなかろうか、とふと思った。肉ではなく野菜や果物、魚介が中心なのだ。
 10月はSeñor de los Milagros (奇蹟の主) の月だった。伝説の奇蹟のキリスト像(かつて大地震が起きたとき、この像のある壁だけは決して崩れなかった)を担いて街を行進する。リマの中心は紫色の垂幕、看板で埋まり、外国からも続々と行進に参加すべくカトリック信者が集まる。熱心な信者は紫色(Morado)に身を纏い一ヶ月を過ごすのだという。
 27日は交通の混雑が懸念されたので早朝から市内観光をすることにした。像が置いてあるリマ中心部のナザレノ教会では朝のミサが厳かに執り行われていた。そして、教会の周辺では、この行事につきもののお菓子Turrón がいたるところで売られていた。

 街にはアジア的なカオスがある。運転マナーはないに等しく、歩いているかのごとく車を前に進めるのがペルー式。前に障害物があれば空いているところを探す。かといって危険かというとそうでもなく、荒っぽさは感じられない。このカオスを見ていて思ったのだが、ペルーのひとびと、山から下りてきたひとびとは、鳥のような感覚を持っているのではなかろうか。高山では平面、直線などないのだから。
 面白いのはタクシーだった。メータがないので乗る前に運転手と値段交渉しなければならない。はじめて利用する観光客など相場がわからないひとはどうするのだろう。

 先月、友だちがペルーからブエノスに遊びに来たとき、骨董品収集が趣味で、ありとあらゆる装飾品をこよなく愛する彼女が、旅行鞄の中に見たこともないような果物やお茶、木の実などを詰めてやって来たのを見て驚いた。その果物を割ってカエルの卵のような実をむさぼっているのだ。ペルーのなにかが彼女を変えてしまった。それからというもの、わたしにはペルーという国がマジカルなものに思えてならなかった。

 桟橋の上に設えられたRosa Nautica という店で魚介類を満喫した。新鮮な魚が豊富に採れるということは海鳥の多さからも十分にうかがえる。海は相変わらず曇り空の下で暗い色をしている。窓際の手摺に一羽のカモメがとまった。店のひとに尋ねると、この鳥はいつもここに飛んでくるらしく、みんなにMilagro(奇蹟)と呼ばれているとのこと。

 海岸通りは石がぎっしり積み重なった崖の下にあり、大地震が起きたら間違いなく崩れそうなのだが、その上には観光客を迎えるための高層ホテルがずらりと並んでいる。ここも、世界のどこにもあるようないわゆる海沿いの観光地の風景になっていくのだろうか。大地震が起こらない限り、きっとそうなのだろう。でも、もし、起こったら、彼らはきっと、また奇蹟の主を信じ、鳥のように生きていくのだろう。彼らは、蘇らないものには関心がないのだ。この大地は、形のあるものを崩し、永遠の回帰を彼らに教えてきたのだろう。