2009/11/05

Don't Worry, Books Are Unreadable Anyway



 先日、管啓次郎さんが南米までわざわざ著書を送ってくださいました。本当にもったいないくらいありがたいお話、感謝。タイトルは『本は読めないものだから心配するな』(Don't Worry, Books Are Unreadable Anyway)、帯には「読書の実用論、潮を打つように本を読みたい」とあります。潮を打つようにとはいったいどういうことなのでしょうか。

 本を開けてすぐに先日観たバレエと同じドン・キホーテという言葉が出てきたり、レヴィ・ストロースの訃報で去年訪れたパリのケ・ブランリ博物館のことを思い出していたら、またレヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』のことが書かれていたりと、この本は、言葉が次の言葉へとどんどんつながりながら、現実と関わっているあらゆる思考を巻き込みながら、ものすごいスパンで渦を巻きながら、展開していきます。ひとつひとつの細胞(言葉あるいはわたし)が生まれて分裂して次の細胞へと変わりながら、身体全体(世界)と連鎖していくようなドラマチックな光景なのです。管さんは、それを「ドン・キホーテ的学識をめざすようなものではない」と断言。つまり、潮を打つようにとはそういうことなのです。

 この『悲しき熱帯』はわたしは読んでいないのですが、管さんが書かれたほんの二頁ほどのこの本に対する思いと、そして、なんと、その後に続く中沢新一の『緑の資本論』のわずかな紹介が、ついこのあいだ読み終えたばかりの『森のバロック』から次へのステップへと実にタイミングよく入り込んできてくれました。そして、この『緑の資本論』は遠い視野を励ましてくれるのだと。

「思考そのものの性癖や身体の習慣を一万年のオーダーでとらえ返さない思想は、なにももたらすことがないだろう」

 南米にいると先住民文化を身近に感じます。街を歩いていてもインディオたちの手工芸品が目につきます。実際に触れることはないけれど、その影はこのブエノスの都会でも感じることができるのです。太古から生き続ける森林を伐採し、ここを新地にして新たな種を撒いてきた新参者、ヨーロッパ文化。自然的発生だった森を無理やり変えてしまったもの。

 まだ45頁しか読んでいませんが、すでに地球を一周したような気分です。まだまだ旅は続きます。本がなかなか読めないわたしを、力強く励ましてくれる一冊です。

 表紙の写真は管さんが撮影されたRano Kau, Rapa Nui というところ。