2009/12/10

Le parole della mattina, le parole della sera - 朝の言葉と夜の言葉



Tra le parole che uso, quelle della mattina sembrano proprio le mie. Queste nascono dal corpo, contengono ancora qualcosa di corporale nonostante tutto le parole non lo sembrino.
Le parole perdono brillantezza avvicinando alla fine della giornata come se fossero ossidate, come noi sentiamo la stanchezza alla sera.
Negli ultimi tempi, quando ascolto le parole aggressive ed intollerabili dalla radio e dalla TV, non posso resistere più a non turarmi le orrecchie. Le parole si sono ridotte ad uno strumento di comunicazione, un cartellone pubblicitario nelle strade. La forza dell’abitudine è spaventosa e qualche volta cerco di non avvicinarmi alla follia del genere tappando le orrecchie con le mani.
Le parole hanno perso la completezza. Le parole complete, differenti da quelle parziali, tolgono una scheggia conficata, riscaldano le mani fredde. Ma da dove nascono queste parole?
Poche persone si ricorderanno del momento in cui ha pronunciato la prima parola della vita. Quando vedono un piccolo riuscire a convertire tutte le sensazioni ad una parola, tutte le persone attorno a lui se ne rallegrano. Basta ricordarsi quelle sensazioni del parto di parole dal tutto il corpo, così uno potrebbe dare la vita alle parole. Io, per esempio, non mi ricordo bene di quelle sensazioni. Dovrebbe essere difficile medicare le piaghe che hanno avuto le parole infedeli e violente, però ho ancora la speranza nella loro guarigione.
La prima parola mia sarà stata "mamma". Non dimenticherò mai che la seconda parola è riuscita a nascere perchè c’era già questa parola calda e completa. Risentirò nelle milioni di parole che si sono allontanate da me, ancora una volta una premura.

 わたしが使う言葉で一番じぶんらしいと思うのは朝の言葉。身体からそのまま出ていくような言葉には、思いもよらないけれど、コーポラルななにかがまだ残っているような気がする。

 言葉は一日が終わる頃になると色褪せる。まるで腐食されたかのように。夜になると身体が覚える疲労感に似ている。

 最近、ラジオやテレビから流れる直接的で攻撃的な言葉には耳を覆いたくなってしまう。言葉が単なる伝達ツール、通りの看板広告になりさがり、それに慣れてしまったじぶんにも嫌気がさす。そして、そういった狂気に触れまいと耳を塞ぐ。

 言葉が丸みを失った、そんな風に思う。一方的ではない丸みのある言葉というのは、刺さった棘を抜いてくれたり、冷たい手を握ってくれたりする。そういう言葉は、いったいどこから生まれるのだろう。

 子供の頃、初めて言葉を発したときのことを覚えているひとは少ないだろう。感覚を言葉に置き換えたとき、周りのひとは歓喜したはずだ。言葉が全身から生まれたという記憶を蘇らせることができるひとは、言葉に命を与えることができる。わたしは、たぶん、そのときのことを忘れてしまっている。言葉が裏切りや暴力の道具となり、言葉そのものが背負ってしまった傷を癒すのは難しい。けれども、わたしは、言葉の力を信じようと思う。

 最初の言葉は、たぶん「かあさん」だった。この言葉があったから、次の言葉が言えたのだということも忘れないようにしよう。その温もりを、遠く離れていってしまった何億もの言葉にもう一度感じたい。

2009/11/24

長い旅の途上


 Life is what happens to you while you are making other plans.

「日々の暮らしのなかで、今、この瞬間とは何なのだろう。ふと考えると、自分にとって、それは“自然”という言葉に行き着いてゆく。目に見える世界だけではない。“内なる自然”との出会いである。何も生みだすことのない、ただ流れてゆく時を、取り戻すということである。」

 2002年6月、ミラノの仲間と一緒にヴェネチアで開催されるビエンナーレという美術展覧会を見に行ったとき(出展したのは仲間の彫刻家Codice Biancoさん)、わたしは、列車の中で星野道夫さんの『長い旅の途上』を読んでいました。星野さんの存在を教えてくれたのは、ミラノ在住の写真家仁木さんです。星野さんの生きかたは、わたしにとってとても衝撃的でした。日本の生活を捨ててアラスカへ。なにが彼をそんなに遠くまで行かせてしまったのか。

 わたしの長い旅もすでに始まっていました。それを特に感じたのはイタリアに住み始めてからです。そのとき、わたしはもう日本国籍を失っていました。「わたしは国籍なんかにこだわる人間じゃない」と思い始めていたのかも知れません。でも、まだまだ口先だけでした。イタリアで活動しているアーチストの仲間たちは、島から島へと自由に飛ぶ鳥のようでした。彼らには国籍も国境も関係ない。あるのは、その向こうにあるなにかへ到達したいという願望だけ。そんな彼らの生きかたに、わたしは憧れていたのです。

 そんなとき、沖縄ではじめてザトウクジラの水中撮影に成功した大学の後輩の写真集に出会いました。それから、わたしはクジラに会ってみたいと思うようになりました。彼らには国籍なんかないじゃないか、と。その願いが叶ったのは、2005年の誕生日、アルゼンチンのヴァルデス半島でのことでした。南極からアルゼンチンまで命懸けで回遊し、出産・子育てをする母クジラを目の前に、小さなことで悩んでばかりいる自分がちっぽけな存在に思えてならなかった。厳しい自然のなかで生きる彼らが偉大に思えてしかたがなかった。

「クジラは圧倒的な生きものだった。・・・・僕たちは巨大なクジラに感動する。それは、生命のもつ不思議さというより、一頭のクジラの一生を超えた果てしない時の流れにうたれているような思いがする。それは人間をも含めた生物の進化とか、地球とか、宇宙につながっていくような存在だった」

 あれからもう何年が過ぎたのでしょう。クジラの回遊にはおよびませんが、北と南半球の八つの季節を何度も往復しました。心をいくつにも切り刻んで愛すべきひとびとのもとに置いてゆきたいと、なんど思ったことか。「また会えるんだから」という何の保障もない慰めだけを頼りに、地球の裏側へ飛んでいく鳥。この忍耐強い回遊を繰り返しているうちに、わたしが学んだことは、どこかへ帰ることではなく、二度と会えないことを覚悟のうえで飛び立つ勇気だったのかも知れません。

「それぞれの美しい季節にこの世であと何度、巡り合えるのか。その数を数えるほど人の一生の短さを知るすべはない。」

 いつからか、自分の生命と自然とを切離して考えることができなくなったという星野さん。すっかり自然と同じになってしまっていた星野さん。あなたは、あなたを襲った熊を恨んでいますか。ここに生きることの「約束」がどういうことなのかよく知っていたあなたは、あの熊ですら愛せてしまうのではないですか。

 あなたのような大きな魂が存在しうるということだけでも、知ることができて良かった。わたしもこれから長い旅を続けます。永遠が相手なら、なにも急ぐことはない。ゆっくり歩いてゆきます。

「わたしは、次第に『色がそこに在る』というのではなく、どこか宇宙の彼方から射してくるという実感を持つようになった。色は見えざるものの領域にある時、光だった。我々は、見えざるものの領域にある時、霊魂であった。色も我々も、根元は一つのところから来ていると。そうでなくて自然の色彩がどうして我々の魂を歓喜させるのだろうか。」

(『長い旅の途上』星野道夫)

Photo by Robin M.
Peninsula Valdes y Puerto Madrin

2009/11/17

"Querido en todas partes" だれからも愛されている

 ここに住んでいると「アルゼンチンは好きですか」とよく聞かれます。そして、わたしの答えは、いつも「Si(はい)」。来たばかりの頃は、目にするもののすべてが新鮮で、危険も省みずにあちこち出歩いてばかりいました。この国がいったいなにを抱えているのかまったく知らずに。

 歴史の本を読めば、ここでなにが起こったのか知ることはできます。でも、感じることはできません。最近、わたしは自分がとても貴重な体験をしているのだと感じ始めました。イタリアからアルゼンチンに引越すことになったとき、「一生のうちに南米で生活できるなんて凄い!」と思ったのを覚えています。南米のことなんかなにひとつ知らなかったのに、いろいろなことを学ばせてもらうことができて、アルゼンチンという国には感謝しなくてはなりません。「でも、それは、ここに一生いないとわかっているから言えること。」そう言ったのは、ここにずっと住んでいるひとです。確かに、5年~10年の短期滞在者の台詞、戯言に違いありません。

 今日は、イタリアから約60年前にアルゼンチンに移住したL氏に会いに行ってきました。モンテ・グランデ(Monte Grande)というブエノス郊外の街に住んでいます。現在82歳。17歳で体験したドイツの強制収容所のこと、生き延びてドイツからイタリアまで歩いて帰ったこと、兵役を務めた後に段ボールを鞄代わりにアルゼンチンに渡ったこと。それからの50年間はただひたすら働いて事業を起こし、現在は障害者のための学校を設立、その教育にも力を入れています。奥さまはナポリ出身です。当時の移民は、まず父親がひとりで旅立ち、生活の基盤が整ったら家族を呼び寄せるといった10年計画。後は馬車馬のようにひたすら働いてきたそうです。「楽ができるようになったら、もう生きる時間がなくなってしまった」というL氏、現在はワイン作りが趣味なのだとか。苦労話は世界中どこにでもあります。でも、こうした体験談を直接聞くことは、わたしにはとても貴重なことでした。


 もうひとつは、ブエノスの街をほんの一歩出たところにある現実をこの目で実際に見たということ。30分ほど車を走らせたところに、その砦はあります。アルゼンチンのサッカー選手テベスの出身地としても知られているフエルテ・アパッチ、ブエノスでは最も危険な地区です。そして、その先にあるのはカミーノ・デ・シントゥーラ(Camino de Cintura)、日が暮れたら通るべからずと言われている通りです。そこにも、当然のことながら、ひとびとの日常生活があり、じぶんのと同じように時間も流れているわけです。ただ違った掟に従っているというだけで。

 この国の人口の40%が貧民だという事実、それをどうにもできない政治。確かに、ここに一生住むことになったらアルゼンチンでいろいろと学べたなんて悠長なことは言っていられません。この現実を見ていたら、どうしようもない、手に負えないと思うのが正直なところかも知れません。理不尽なことが公然と行われているアルゼンチンという国にはあらゆるスタイルの弱肉強食の力関係があります。こうした襲撃も、生き残るための狩りのようなもの。テベスもそんな中で育ってきたはずです。けれども、彼が"Querido en todas partes"(だれからも愛されている)と呼ばれるのはなぜなのだろうと、考えてしまいます。「時が来ればみんなバスから降りなくてはならない。もしバスに残っている乗客がみんな自分の子どもだと思えたら安心して降りられる。」L氏の言葉も心に残りました。

2009/11/11

Floralis Generica




 そろそろ夏の到来です。これまでも30度を超える日がありましたが、ほころびかけていたハカランダがここ数日でいっせいに開花しました。ブエノスは今がお花見の季節です。

 昨日は、マルバ美術館(Malba-Museo de Latinoamericano de Buenos Airesまでわざわざ行ったのにうっかり火曜日は休館日でした。アンディ・ウォーホールの特設展は、またの機会に。でも、休館日だったおかげで、マルバから家まで歩いて帰ろうという気になりました。そっちの方が良かったかも知れません。ブエノスのグリーンベルト沿いのフィゲロア・アルコルタ通りはお花見街道。

 ブエノスでわたしがいちばん気になる花は、この通りのプラサ・デ・ナシオネス・ウニダスという公園にあります。4万平方メートルという広い敷地のまんなかに銀色に輝きながら咲くその花は、フロラリス・へネリカ(Floralis Generica)アルゼンチンの建築家でマサチューセッツ工科大学名誉教授、エドゥアルド・カタラノ氏(Eduardo Catalano)が13ヶ月かけて制作、ブエノス市に寄贈したものです。ちなみに6枚ある花びらはステンレスのスチール製、それぞれの大きさは13x7メートル、重さは4000キロ、雌しべはジュラルミン製で、コルドバにあるロッキード・マーチンの工場で作られたそうです。制作費は50万ドル。

 この花には水圧式の自動制御装置がついていて、夜になると閉じたり、特別な日、例えばクリスマスやお正月には一晩中開いていたり、また風速が時速80キロを越すと閉じたりと、いろいろとプログラムされています。そして、夜閉じた花のなかには真赤なハロゲンランプが灯ります。

 “La flor expresa la esencia de la naturaleza en una ciudad particularmente furiosa.”

 カタラノ氏いわく、この花は狂乱のブエノスにとってたいせつな自然の要素なのだそうです。わたしには、とても孤独な花に見えました。    

2009/11/05

Don't Worry, Books Are Unreadable Anyway



 先日、管啓次郎さんが南米までわざわざ著書を送ってくださいました。本当にもったいないくらいありがたいお話、感謝。タイトルは『本は読めないものだから心配するな』(Don't Worry, Books Are Unreadable Anyway)、帯には「読書の実用論、潮を打つように本を読みたい」とあります。潮を打つようにとはいったいどういうことなのでしょうか。

 本を開けてすぐに先日観たバレエと同じドン・キホーテという言葉が出てきたり、レヴィ・ストロースの訃報で去年訪れたパリのケ・ブランリ博物館のことを思い出していたら、またレヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』のことが書かれていたりと、この本は、言葉が次の言葉へとどんどんつながりながら、現実と関わっているあらゆる思考を巻き込みながら、ものすごいスパンで渦を巻きながら、展開していきます。ひとつひとつの細胞(言葉あるいはわたし)が生まれて分裂して次の細胞へと変わりながら、身体全体(世界)と連鎖していくようなドラマチックな光景なのです。管さんは、それを「ドン・キホーテ的学識をめざすようなものではない」と断言。つまり、潮を打つようにとはそういうことなのです。

 この『悲しき熱帯』はわたしは読んでいないのですが、管さんが書かれたほんの二頁ほどのこの本に対する思いと、そして、なんと、その後に続く中沢新一の『緑の資本論』のわずかな紹介が、ついこのあいだ読み終えたばかりの『森のバロック』から次へのステップへと実にタイミングよく入り込んできてくれました。そして、この『緑の資本論』は遠い視野を励ましてくれるのだと。

「思考そのものの性癖や身体の習慣を一万年のオーダーでとらえ返さない思想は、なにももたらすことがないだろう」

 南米にいると先住民文化を身近に感じます。街を歩いていてもインディオたちの手工芸品が目につきます。実際に触れることはないけれど、その影はこのブエノスの都会でも感じることができるのです。太古から生き続ける森林を伐採し、ここを新地にして新たな種を撒いてきた新参者、ヨーロッパ文化。自然的発生だった森を無理やり変えてしまったもの。

 まだ45頁しか読んでいませんが、すでに地球を一周したような気分です。まだまだ旅は続きます。本がなかなか読めないわたしを、力強く励ましてくれる一冊です。

 表紙の写真は管さんが撮影されたRano Kau, Rapa Nui というところ。

2009/11/02

Don Quijote



 昨日は、フリエタと一緒にバレエ『ドン・キホーテ』を見てきました。M・T・アルヴェアール通りにあるコリセオ劇場です。モダンバレエやダンスはこれまでよく見ましたが、クラシック・バレエは数えるほど。思い出せないほどに少ないのです。

 『ドン・キホーテ』はセルバンテスの小説ですが、あの込み入った内容からバレエになっているのは、ドン・キホーテが親に反対された若者の結婚を成立させる場面と、風車に突撃していく場面、そして、結婚式と幻想的な夢を見ている場面です。とにかく、はじめから終わりまで、物語よりも踊りの方に目が張りついていました。統制された動きと鍛えられた筋肉はまるで精巧な機械のように動きます。そして、バレリーナたちの表情は常に笑顔。

 筋肉は精神のひとつとして心理学に入れるべきだ、というのをどこかで読んだことがあります。筋肉感情なんていう言葉も聞いたことがあります。東洋医学の名著『黄帝内経』には、「喜は心を傷つける。怒は肝を傷つける。思は脾を傷つける。憂は肺を傷つける。恐は腎を傷つける」とあります。

 ちなみに、現代では鎧のような筋肉は必要ないとのこと。力仕事は筋肉の代わりに機械がやってくれていますから。筋肉こそお金では手に入らない、だからというわけではないのでしょうが、ブエノスの緑地地帯(街の北部広域を占めています)は毎晩暗くなるまでジョギングや体操をするひとでいっぱいです。夏になれば、もっと増えるでしょう。ドン・キホーテの鎧のような筋肉はいらないけれど、幻に打ち勝てるような筋肉づくりはやっぱり必要なのかも。

 ところで、今朝、ライオンが家のなかに入ってくる夢をみました。穏やかにこちらに歩いてくるのです。そこに長男が登場して、そのライオンの前足を両手でつかみました。まるで友だち同士のように。そのことを長男に話したところ、「ドン・キホーテは前後編読破したから全部暗記しているけど、ライオンの冒険というエピソードがあるんだよね」と。バレエにもライオンは出てきませんでしたし、このエピソードのことはまったく知りませんでした。夢というのは、筋肉感情とはまったく別の次元なのでしょうか。それとも、それも訓練しだいで統制できるもの?

2009/10/30

Consuelo y Julieta



You should see love as a journey and it will last, if you see it as a home it will die.

 これは、最近気に入っている言葉。この言葉からいろいろ連想していたらフリエタに行きつきました。フリエタと知り合ったのは2006年のあるパーティ。ブエノス・アイレスです。たった一度きりなのに、彼女とはうまがあうというか、たぶん、肝心なところで共鳴し合っているのでしょうね。それ以来、コンスタントに会っていろんな話をしています。

 はじめてパーティで会ったとき、彼女の名まえの話になりました。スペイン語でフリエタはジュリエットのこと。ロマンチックな人生を送っているんだろうなあ、と勝手に想像していたのはわたしだけ。

「両親はコンスエロという名まえをつけたかったらしいの。でも、祖母の猛反対でフリエタになったのよ」

 奇遇にも、そのときわたしが書きはじめていた物語の仮題がコンスエロでした。コンスエロという名まえはConsolare(伊)、Consolar(西)から来たもので、慰めるとか苦しみや悲しみを和らげるという意味があります。Wikiによれば、

It is a female given name meaning "consolation" or "consolata" refering to the Virgin Mary.

 とにかく、この名まえからはいろんろな女性像が思い浮かんできます。わたしの場合だと、長男の小学校の先生がコンスエロ、幼稚園に通っていた次男の先生もコンスエリータ。というわけで、子どもたちを優しく庇ってくれる女性というイメージ。庇護性といっても良いかも知れません。

 サン・テグジュペリの奥さんもこの名まえです。出身はエル・サルヴァドールですが、彼と出会ったのはブエノス・アイレスでした。美しくて魅力的なひとですが、再婚だからなのか、サンテグジュペリの家族にはなかなか認めてもらえなかったそうです。“The Tale of the Rose” (薔薇の回想)という本を残しています。

 もうひとり思い出すのはジョルジュ・サンドです。サンドが小説の主人公にコンスエロという名を選んだわけまでは知りません。それよりも、ショパンとのことの方が気になります。モンマルトルのロマン主義美術館には、サンドの右腕とショパンの左手のmoulage(鋳像)が仲良く並んでいました。サンドはコンスエロのなかに、じぶんの姿を見ていたのかも。なんて、これはわたしの想像ですが。

 なんだか、こうしてみてみると、コンスエロという名は庇護性よりも「波乱万丈の人生」を招きそうな名まえといった印象です。

 コンスエロという名まえになりかけたフリエタは、フランス教育を受け、スイス、パリ、そして中南米を転々としてきました。まったくリベラルなもの考え方をするひとで、経験こそが宝もの、失うものはなにもない、というひとです。そんな彼女も小説を書いています。舞台は2千年前のローマ。「あの時代に、愛することにおいてひとは平等だなんて、すごいじゃない!」と。

 フリエタと気が合うのは、たぶん、ふたりともデラシネっぽいからだと思います。どこに根を張るかよりも根によってなにをどう育てるか、名まえや形式よりも実質というタイプ。あのジュリエットも言っていました。薔薇の名まえが別のものでも薔薇の香りには変わりはないと。

2009/10/27

Que los cumplas feliz! ― けろくんぷらふぇり~



 今日は2009年のわたしの誕生日でした。また新たな一年の始まりです。もうあまり歳の数は数えたくありませんが、誕生日はいくつになっても夢と希望を抱きながらお祝いしたいもの。90歳になってもそのつもり。

 今日は、とっても素敵にはじまりました。こんなに幸せな誕生日、何年振りでしょう。みんなが誕生日を覚えていてくれるだけでも十分嬉しいのに、メッセージやカード、そして電話で歌を歌ってくれたひとも。南米のこんなに遠くにいるのに、日本やヨーロッパ、アメリカからもお祝いをもらって、これぞオンライン時代の誕生日の醍醐味というものです。6年前にアルゼンチンに来たときは、こんなに遠くに来ちゃって、そのうちみんなに忘れられちゃうんじゃないかと、本気で心配したものです。

 なにもしないつもりだったけれど、友だちを誘って向かいのスシクラブでちょっとしたランチをすることにしました。ここは、カリフォルニアンスシのお店。創作スシに徹底しています。いろんな素材を合わせたフュージョン感覚がとても気に入っています。

 誕生日だというと、お店が気を利かせてケーキとシャンパンをサービスしてくれました。蝋燭の火を消す前にちゃんと願いごとも唱えました。ところが、この蝋燭、花火みたいに自動的にまた引火してしまうので、いくら吹いても消えない。そのたびに願いごとを唱えてしまいました。といっても願いごとはたったひとつなのだけれど。プレゼントにもらった靴の形のチョコレートは、シンデレラみたいに願いごとがかなった日に食べることにします。

 最後に、けろくんぷらふぇり~(Que los cumplas feliz)というのは、Happy birthday to you のスペイン語版です。スペインのスペイン語だと、けろくんぷらふぇりとなるのでしょうが、アルゼンチンではこのSの発音が脱落してしまいます。ちょっとフランス語みたい。ちなみに、この部分をイタリア語に直訳してみると、che li compia felicemente (けりこんぴあふぇりーちぇめんて)となりますがあまり使わないみたいです。やっぱりイタリア語では、Tanti auguri a te~ (たんてぃあうぐぅりあて~)でしょう。

2009/10/25

Elementare, mio caro Watson!

 
 昨日の朝から制作をはじめてまる二日かかりましたが、BiBi太郎日記もようやく格好がついてきました。梃子摺ったのなんのって。ただでさえパソコンには明るくないわたしですから、どれだけ失敗を繰り返したことかわかりません。でも、そういうときにはちゃんと助っ人が現れてくれるもの。

 「なあに初歩的なことだよ、ワトソンくん!」と言いながら、面倒な操作を助けてくださったRyoさん、ありがとうございました。こうしてできてみると本当に嬉しいものです。

 さて、BiBi太郎日記では、外国人読者ができることを想定し、辞書や翻訳機能を取りつけてみました。この機能は、ここにもリンクしているダニエレのブログで見つけました。つい先ほどBiBi太郎日記のことをブログで紹介してくれたので、さっそくこの機能を使って日本語に翻訳してみました。

 イタリア語からだと翻訳情報が手薄なのかも知れません。かなり想像力を働かせないとわからない部分もあります。英語だったらもっと流暢な日本語になったかも。ということは、彼らが日本語を読むときも、イタリア語ではなくて英語に翻訳するとわかりやすいのかも知れません。

 この機能は、利用者が翻訳されたおかしな文章を添削して送り返すシステムになっているので、より大勢の意見が反映されれば、もっと自然な言い回しになるでしょう。

 ダニエレについて、わたしも少し触れておきましょう。彼は、ついこのあいだ医学部を卒業したばかり。勉強のあいまによくこれだけのことができると感心するほどいろんなことをしています。その活動内容はダニエレのオフィシャル・サイトに網羅されています(一部製作中)が、目玉はついこのあいだ出版されたファンタジー小説“Primavera di Aithea”でしょう。実は、これは二作目で、この前に詩集“Il  Giorno e la Notte” も出しています。

 本といえば、スペインの諺にこんなのがあります。一生にすべきことは三つある。ひとつは子どもを産むこと、もうひとつは木を植えること、そして、三つ目は本を書くこと。どこに木を植えたら良いのかわからないわたしは、とりあえず本を書きました。わたしにとって本は木のようなもの。いろんな言語に訳されていろんな国のひとの心に根を張っていきます。本と木はどこか似ています。

2009/10/24

BiBi太郎日記の開設

 今日から新たなブログを開設しました。その名も「BiBi太郎日記」。定着したニックネームBiBiにわけありでつけた太郎、このハンドルネームもお馴染みさんが増えました。

 先日、イタリア語でbibitaroはどういう意味か調べてみたら、ローマ弁でドリンクの売り子さんのことだということが判明しました。サッカーの観戦や映画館でよく見かけます。ま、それはそれで良いとして。

 ところで、絵の制作記録は、これまで通り「Festina Lente」に掲載していこうと思います。ホームページを作ろうかなどとも思ったのですが、これはまだわたしには運営管理は無理とみました。大きく店構えしたところで売り込むものはありませぬ。

 ということで、これからは、BiBi太郎日記をよろしくお願いします。

BiBi太郎