2011/02/27

岡本太郎生誕百周年 ニッポン男児ここにあり



 昨日は、アルゼンチン在住20年という日本人女性と、ブエノスの日本庭園でお会いした。そもそも彼女との出会いは、日本人社会とはまったく無縁の、去年の9月の展示会のとき。わたしは上の階で絵の展示、彼女は下の階で広島原爆平和のための折鶴展をしていた。

 一ヶ月のあいだ、上の階の自分の展示場に行くのに、毎日その折鶴の会場を通っていたので、彼女には何度も会った。けれども、あまり話をする機会がなくて、その後Twitterで、どういういきさつだったかまったく覚えていないけれど、言葉を交わすようになり、彼女のアルゼンチン在住20周年を記念してお茶でもしませんかということになった。20年前に青年海外協力隊からここに派遣されてきた草分け的存在。なにごとも勉強と前向きに飛び込んでいく姿勢には打たれる。

 昨日のブエノスはお天気も良く、日本庭園はすごい人出。相変わらず、園内は綺麗に清掃整備がゆき届き、ブエノスに突如現れた別世界といった感じ。その異次元的空間では、みんな朗らかで親切、ちょっと日本みたいでほっとする。
 
 庭園を散歩していると、ひとりの日本人の男子が現れた。WASEDAのロゴ入りのポロを着ていたが、卒業旅行で南米をバックパックの一人旅中。欧州と南米とどちらにしようか迷ったが南米を選んだのだという。ちょうど昨日は岡本太郎の生誕百周年、「迷ったときは難しい方を選べ」という太郎の言葉を思い出した。すると、WASEDAボーイは、選べること自体が幸せだと思うと言った。岡本太郎の記念日に相応しい出会いである。

 そのまま、みんなで連れ立って園内の図書室に行き、そこの係員と話しているうちに、書道の話題になった。みると、室内にも書がいくつか飾ってある。にわか書道屋のBiBi太郎も書道には関心がある。すると、そのWASEDAボーイこそが、実は、四段の達人だということがわかり、それじゃあここで一筆書いてみないかと、たちまちデモンストレーションすることになった。

 筆と墨汁と紙が準備されると、「座右の銘を書きます」とすぐに書くものも決まって、四段が取りかかる。呼び込み係はわたくしBiBi太郎。すぐに、なんだなんだとひとが集まってきた。WASEDAボーイは緊張することもなく、「日々是好日」とささっと書いていった。その意味をスペイン語で説明すると、みんなが感動した。そして、観客と記念撮影。彼にとってもよい思い出になったことだろう。書は図書室に残るし、いつか飾ってもらえるかも知れない。リクエストに答えてもうひとつ、絆という字も書いてくれた。

 このWASEDAボーイ、大学ではサッカーをしていたのだとか。スポーツマンである。一昨日はブエノスの公園で子どもたちとサッカーをして遊び、真面目でやさしく、礼儀正しいニッポン男児は、たちまちアイドル的存在となり、翌日はさっそくパーティに招待されたのだとか。サッカーに国境はない。言葉もいらないのだろう。
 
 日本庭園の売店で、三人で鯛焼きアイスをいただきながら、しばし南米の日本を満喫した。移民の方々の汗と努力によっていま、ここがあるということを、日本だけでなくどの国のひとも感じているのがアルゼンチン。WASEDAボーイはそんな多国籍共存のなかで育つ子どもたちを見て、いいなあ、とつぶやいた。


2011/02/04

この星のみやげに、ディノ・サルーシを Dino Saluzzi




 わたしにとって南米はなんだったのか。7年前、ここに到着した。南米について知っていることはほとんどなし、事前に調べたこともなし。それよりも、経済破綻後の当面の状況をどう切り抜けるかだけで精一杯だった。わたしは、ヨーロッパ経由の日本的発想が抜けきれないまま、それをここにあてはめようとしていた。でも、そんなことできっこないのだ。あっというまに、限界をみて、その構造は崩壊した。そして、なんとなく、ここには自由らしきものが、ありそうだ、とまで思ってしまったのだった。でも、それも、新世界に憧れてここに来たひとたちが考えていたのと同じ、らしきものに過ぎず、そんな生やさしいものではないということがすぐにわかるようになる。

 多国籍共存型の社会が先住民文化を押しのけて成立したかのような、虚構色たっぷりの環境に、ヨーロッパを少し齧った日本人がいる。赤子の手を捻るというのがいちばんあたっているかも知れない単純明解な構造のわたしがいる。そこにぴたっときたのがサルーシだった。このひとの音楽は、手放しで、自由の姿をしたアルゼンチンに入ってきたものへの賛歌なのだ。そこに待ち受けているありとあらゆることへ勇気を出して向かって行けと、背中を押されたような気分だった。父を亡くしたとき、毎日聴いていたのはこのひとの音楽だった。このひとの復活祭のコンサートのすぐ後で、父は逝った。その後、日本とアルゼンチンをなんども行き来した。空から地球を眺めながら、地上で起こっていることのなんとちっぽけで、取るに足らないことと、なんどもそう思ったものだ。でも、このひとの音楽は、わたしを地上へ連れ戻し、さあ、歩いていけという。

 なにも知らなかった。この国になにがあるのか、わたしにはまったくわからなかった。ここで、ひとびとの喜怒哀楽を一緒にみてこなければ。わたしには、なにもできなかった。貧しいひとに小銭をあげるくらい。ちょっとした寄付を施設に払うくらい。政治が悪いから仕方がないという聞き飽きた台詞しか入ってこない。そして、みんながそれでいいと諦めてしまっている。でも、本当にそれだけだったのだろうか。

 夕べ、サルーシを聴きに来ていたひとたちには希望があった。彼は、そうしたひとびとの思いを、結びつけ、動かぬものに変えようとしていた。なにを振り返り、なにを夢みるのか。言葉で説明できないけれどなんとなくわかる、だれにでもあるあの感じを、たとえそれが消失寸前なくらい弱りきっていても、このひとは見逃さない。掬い取ってしまう。

 そして、この7年のあいだ、わたしのなかでも同じことが行われていたのだろうと思う。いま、Ora di tornare a casa、帰るときがきた。このひとの音楽は、南米みやげに持って帰る。この先、たぶん地球みやげにもなるだろうと思う。