2011/02/04

この星のみやげに、ディノ・サルーシを Dino Saluzzi




 わたしにとって南米はなんだったのか。7年前、ここに到着した。南米について知っていることはほとんどなし、事前に調べたこともなし。それよりも、経済破綻後の当面の状況をどう切り抜けるかだけで精一杯だった。わたしは、ヨーロッパ経由の日本的発想が抜けきれないまま、それをここにあてはめようとしていた。でも、そんなことできっこないのだ。あっというまに、限界をみて、その構造は崩壊した。そして、なんとなく、ここには自由らしきものが、ありそうだ、とまで思ってしまったのだった。でも、それも、新世界に憧れてここに来たひとたちが考えていたのと同じ、らしきものに過ぎず、そんな生やさしいものではないということがすぐにわかるようになる。

 多国籍共存型の社会が先住民文化を押しのけて成立したかのような、虚構色たっぷりの環境に、ヨーロッパを少し齧った日本人がいる。赤子の手を捻るというのがいちばんあたっているかも知れない単純明解な構造のわたしがいる。そこにぴたっときたのがサルーシだった。このひとの音楽は、手放しで、自由の姿をしたアルゼンチンに入ってきたものへの賛歌なのだ。そこに待ち受けているありとあらゆることへ勇気を出して向かって行けと、背中を押されたような気分だった。父を亡くしたとき、毎日聴いていたのはこのひとの音楽だった。このひとの復活祭のコンサートのすぐ後で、父は逝った。その後、日本とアルゼンチンをなんども行き来した。空から地球を眺めながら、地上で起こっていることのなんとちっぽけで、取るに足らないことと、なんどもそう思ったものだ。でも、このひとの音楽は、わたしを地上へ連れ戻し、さあ、歩いていけという。

 なにも知らなかった。この国になにがあるのか、わたしにはまったくわからなかった。ここで、ひとびとの喜怒哀楽を一緒にみてこなければ。わたしには、なにもできなかった。貧しいひとに小銭をあげるくらい。ちょっとした寄付を施設に払うくらい。政治が悪いから仕方がないという聞き飽きた台詞しか入ってこない。そして、みんながそれでいいと諦めてしまっている。でも、本当にそれだけだったのだろうか。

 夕べ、サルーシを聴きに来ていたひとたちには希望があった。彼は、そうしたひとびとの思いを、結びつけ、動かぬものに変えようとしていた。なにを振り返り、なにを夢みるのか。言葉で説明できないけれどなんとなくわかる、だれにでもあるあの感じを、たとえそれが消失寸前なくらい弱りきっていても、このひとは見逃さない。掬い取ってしまう。

 そして、この7年のあいだ、わたしのなかでも同じことが行われていたのだろうと思う。いま、Ora di tornare a casa、帰るときがきた。このひとの音楽は、南米みやげに持って帰る。この先、たぶん地球みやげにもなるだろうと思う。